人事戦略を人事部門の中期計画として書いてきた会社は、2026年から読み手が変わります。これまで経営会議の中で共有すれば済んでいた文書が、投資家と労働市場の目に触れる説明へと位置づけを変えたためです。
動いたのは呼び名ではなく、書き方の水準です。国が示す枠組みが「重要性の指摘」から具体的な手順へ踏み込み、社内向けの体裁のままでは通らなくなりました。ここから先は、人事戦略の意味を押さえ直したうえで、経営戦略へ接続するまでの段取りを官公庁の一次資料からたどります。
人事戦略の定義と人材戦略・戦略人事との違い
人事戦略とは、経営戦略の実現に必要な人材を確保・育成・配置・処遇するための計画と、その実行の体系です。採用や評価といった人事施策の一覧とは別物で、経営戦略の側から逆算して中身が決まる点に特徴があります。
経済産業省が2022年5月に公表した人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書(人材版伊藤レポート2.0)は、経営環境が急速に変化するなかで持続的に企業価値を向上させるには、経営戦略と表裏一体で、その実現を支える人材戦略を策定し実行することが不可欠だと述べました。表裏一体という言い方には、人事戦略を経営戦略の後工程として扱わない、同じ紙の裏表として同時に決めるという含意があります。
似た言葉が複数あるので、社内で議論を始める前に対応を揃えておくとよいでしょう。
用語 | 何を指すか | 主に使われる場面 |
|---|
人事戦略 | 経営戦略の実現に必要な人材の確保・育成・配置・処遇の計画 | 社内文書・人事部門の中期計画 |
人材戦略 | 同じ内容。国の資料はこちらの表記で統一されている | 官公庁の資料・有価証券報告書 |
戦略人事 | 人事部門が経営に対して果たす機能・役割のあり方 | 組織設計・人事部門の位置づけの議論 |
人事制度 | 等級・報酬・評価・異動といった個別の仕組み | 制度設計・改定の実務 |
国が出す文書はほぼ一貫して「人材戦略」を使います。後述する2026年2月の開示府令改正でも、有価証券報告書の記載上の注意に置かれた見出しは「人材戦略に関する基本方針等」でした。以下では、社内で使う呼び方としての人事戦略と、制度上の呼び方としての人材戦略を同じものとして扱います。
戦略人事だけは指す対象が違います。こちらは人事部門が経営のパートナーとして機能しているかという役割論で、人事戦略という「計画」に対して、それを作って回す「体制」の側にあたる。両者を混ぜたまま議論すると、計画の中身を詰めたいのか人事部門の権限を変えたいのかが曖昧になります。
人材戦略は有価証券報告書の記載事項になった
金融庁が2026年2月20日に公布・施行した企業内容等の開示に関する内閣府令等の改正により、有価証券報告書の記載上の注意に「人材戦略に関する基本方針等」が新設されました。最初の対象になるのは2026年3月期です。同改正は、令和8年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書等から適用されます。
金融庁が同日に出した開示府令等の改正の公布及びパブリックコメントの結果によると、新たに求められるのは次の3つでした。
- 連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略
- それを踏まえた従業員給与等の決定方針(提出会社についての方針に限定することも可能)
- 提出会社の従業員の平均給与の対前年比増減率
見落とされやすいのが、記載場所そのものが動いた点でしょう。同じ改正で「従業員の状況」の位置が第1【企業の概況】から第4【提出会社の状況】へ移りました。会社概要の一部として並んでいた従業員情報が、経営の説明をする章に置き直された。人数や平均年齢を事実として記す欄から、戦略の裏づけを示す欄へ性格が変わったことになります。
給与に関する2項目が加わったことで、人事戦略が扱うべき範囲も広がりました。給与の決定方針を「企業戦略と関連付けた人材戦略」を踏まえたものとして書く以上、その方針を導く根拠は人事戦略の側に無ければなりません。育成と獲得だけを並べた計画は、報酬の項に根拠を供給できない文書ということになる。報酬を人事制度の各論として切り離さず、戦略の構成要素として扱う必要があります。
内閣官房・金融庁・経済産業省が2026年3月23日に公表した人的資本可視化指針(改訂版)は、対象を企業規模に関わらず様々な企業と明記しています。開示の義務が及ばない会社でも、採用市場と取引先が同じ枠組みで説明を求める流れは変わりません。適用範囲・他制度との関係・記載事例といった制度そのものの中身は人的資本の開示ルールの側に譲り、ここから先は戦略の立て方に絞ります。
国の枠組みは3つの視点と5つの共通要素からなる
経営戦略と連動した人材戦略に何が求められるかを整理した枠組みが、経済産業省の人材版伊藤レポート2.0(2022年5月公表・全81ページ)にあります。3つの視点と5つの共通要素という2層構造で、汎用の経営分析手法とは別に、人材戦略に固有の観点を定めたものです。
3つの視点は、経営戦略と連動しているか、目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか、人材戦略が実行されるプロセスの中で組織や個人の行動変容を促し企業文化として定着しているか、の3点です。連動・ギャップ・定着と読み替えると、計画を立てる段、現状を測る段、回し続ける段に対応していることが分かります。
5つの共通要素は、動的な人材ポートフォリオ、知・経験のダイバーシティ&インクルージョン、リスキル・学び直し、社員エンゲージメント、時間や場所にとらわれない働き方です。どれも単独の施策名として流通していますが、同レポートの位置づけでは3つの視点を満たすための材料にあたります。並べて実施すること自体が目的になると、順序が逆立ちします。
優先順位も示されました。同レポートのエグゼクティブサマリーは、最も重要な視点は経営戦略と人材戦略の連動であるとしたうえで、本文では「特に『経営戦略と人材戦略を連動させるための取組』の中でも、CHRO(最高人事責任者)の設置及び全社的経営課題の抽出が最も重要なステップとなる」と書いています。全項目を一律に埋めるのではなく、この2つから入れという指定だと読めるでしょう。
同レポートの第1章が挙げる取組は次の7つです。
取組 | 内容 |
|---|
CHROの設置 | 人材戦略の責任者を経営の一員として置く |
全社的経営課題の抽出 | 経営陣が人材面の課題を全社の課題として洗い出す |
KPIの設定、背景・理由の説明 | 指標を定め、なぜその指標なのかを説明する |
人事と事業の両部門の役割分担の検証と人事部門のケイパビリティ向上 | 役割を見直し、人事部門の能力を引き上げる |
サクセッションプランの具体的プログラム化 | 後継者育成を計画から具体的な仕組みへ落とす |
指名委員会委員長への社外取締役の登用 | 指名の独立性を担保する |
役員報酬への人材に関するKPIの反映 | 人材面の成果を経営陣の報酬に結びつける |
第2章はギャップの定量把握にあてられ、人事情報基盤の整備、動的な人材ポートフォリオ計画を踏まえた目標や達成までの期間の設定、定量把握する項目の一覧化という3項目が置かれました。視点の2番目にあたる「ギャップを把握できているか」を実務へ落とす部分がここです。枠組みの源流をたどりたい場合は伊藤レポートの解説が入口になります。
5つの共通要素のひとつである従業員エンゲージメントは、後述する可視化指針が幅広い企業に開示を期待する指標にも挙がっています。要素と指標の両方に登場するため、人事戦略の文書では扱いが重くなりやすい領域でしょう。
人事戦略は5つの手順で経営戦略に接続する
手順の骨格は、内閣官房・金融庁・経済産業省の「人的資本可視化指針(改訂版)」(2026年3月23日公表)が新設した2つのステップから組めます。ひとつは人的資本への依存と影響、もうひとつは人的資本関連のリスクと機会で、この2段を通すと連動という抽象語が具体的な文章に落ちます。
経営戦略からあるべき組織と人材の姿を描く
最初にやることは、事業側の目標を人材の言葉へ翻訳する作業です。可視化指針の改訂版が置く出発点も同じで、経営戦略・成長戦略を実現するために将来必要となる人材ポートフォリオをできるだけ鮮明に描くことがまずは肝要だとしています。職種・人数・スキル水準・時間軸まで書けて初めて、次の段で現状と比較できるようになる。
現状を数値で押さえる
あるべき姿が描けたら、現在地を数値にします。可視化指針の改訂版が「幅広い企業に開示が期待される指標」として挙げるのは、従業員数、人件費、離職率、従業員エンゲージメントスコアの4つです。この4つを自社で出せる状態にするところが出発点になります。
離職率を見るときは外の基準と並べます。厚生労働省の令和7(2025)年雇用動向調査結果の概況(2026年8月31日公表・調査対象14,840事業所・平均有効回答率60.9%)によると、年初の常用労働者数に対する入職率は14.7%、離職率は13.7%で、1.0ポイントの入職超過でした。一般労働者に限れば入職率12.0%、離職率11.4%となっています。自社の数値がこの水準からどれだけ離れているか。そこが最初の論点になるはずです。
指標を選ぶところから設計し直すなら、人事KPIの一覧で算出式と目標値の目安をあたっておくと早く進むでしょう。
採用側の現在地も同じ段で測っておくと、次の手順で見るギャップが具体的になります。エンジニア領域であればエンジニア採用力チェックで外形的な水準を確認でき、あるべき姿との差を採用の側から見積もる材料が手に入ります。
ギャップをリスクと機会に整理する
差分をそのまま並べても打ち手は決まりません。可視化指針の改訂版は、事業セグメント、バリューチェーン上の機能、国や地域のどこに人的資本関連のリスクと機会が生じているかを明確にすることに資すると述べています。「エンジニアが足りない」で止めず、どの事業のどの機能で、いつ、どの水準の人材が不足し、それが売上と原価にどう跳ねるのかまで書き下ろす。ここまで具体化すると、投資すべき順序が自然に決まってきます。
必要な人的資本投資を決める
可視化指針の改訂版が投資の対象として列挙するのは、人材採用、人材育成、適切な賃金水準の設定、従業員の福利への投資、そして従業員エンゲージメントへの取組を含む職場環境整備です。育成だけ、あるいは賃金だけを動かす計画になっていないかを、この一覧で点検できます。
指標と目標の時間軸を経営戦略に合わせる
最後に時間軸を揃えます。経営戦略上の目標の時間軸を念頭に人的資本関連の目標の時間軸を設定する必要がある。可視化指針の改訂版には、そういう投資家の意見が載っています。3年の中期経営計画に対して単年度の指標しか置いていない場合、進捗を語る土台が噛み合いません。
SWOT分析は現状把握までしか担えない
人事戦略の解説では、SWOT(強み・弱み・機会・脅威)分析、3C分析、PEST(政治・経済・社会・技術)分析、7Sモデル、VRIO(経済的価値・希少性・模倣困難性・組織)分析といった手法が定番として並びます。いずれも外部環境と内部資源を棚卸しする道具にはなりますが、経営戦略と人材戦略をどう関連付けるかまでは説明しません。汎用の経営分析手法であって、人材に固有の接続を扱う設計になっていないためです。
この限界は、国の指針自身の書きぶりからも読み取れます。人的資本可視化指針の改訂版(2026年3月23日公表)は、改訂前の指針について「経営戦略と人材戦略の連動については、その重要性の指摘にとどまり、具体的な考え方やステップに関する記述は限定的であった」と振り返り、そのうえで前述の2ステップを新設しました。国が示す指針でさえ、重要性の指摘から具体的な手順へ進むのに4年近くを要した領域になります。
同じ日に公表された別紙戦略に焦点をあてた人的資本開示は、2つの枠組みを並べて対比しました。
枠組み | 目的 | 開示の対象 |
|---|
指標に焦点をあてた開示 | 社会課題の解決等 | 開示の枠組みが既定した指標の列挙 |
戦略に焦点をあてた開示 | 企業固有の経営戦略・ビジネスモデル | 企業固有の人材戦略と、それを踏まえた指標 |
人事戦略を指標の一覧で済ませる書き方が通らなくなったのは、この対比の後者が制度側の立ち位置になったからです。同別紙は「同一業種で同額の利益やキャッシュ・フローを生み出す会社でも、必要となる人的資本投資を行っているか否かによって将来の成長や持続可能性は異なり得るが、財務諸表からは明らかではない」と述べています。財務では見えない差を人材戦略の記述で説明する。それが求められている役割です。
したがってフレームワークを捨てる必要はなく、置き場所を変えれば足ります。手順2の現状把握で棚卸しに使い、手順3以降の接続は可視化指針の2ステップで組む。この分担にしておくと、フレームワークを埋めたのに戦略が決まらないという行き詰まりを避けられます。
実行段階で最初に詰まるのは育成の担い手である
人事戦略が計画倒れになる原因は、設計の粗さよりも実行資源の不足にあります。厚生労働省が2026年7月31日に公表した令和7年度「能力開発基本調査」の結果によれば、能力開発や人材育成に関して何らかの問題があるとする事業所の割合は80.1%にのぼりました。
同じ令和7年度能力開発基本調査が示す問題点の内訳には、実務の詰まり方がそのまま出ています。
問題点(複数回答) | 割合 |
|---|
指導する人材が不足している | 59.5% |
人材を育成しても辞めてしまう | 51.6% |
人材育成を行う時間がない | 45.5% |
鍛えがいのある人材が集まらない | 27.5% |
育成を行うための金銭的余裕がない | 14.3% |
人材育成の方法がわからない | 10.0% |
上位3つはいずれも「回す資源が無い」型で、「方法がわからない」は10.0%にとどまりました。同じ厚生労働省の令和7年度能力開発基本調査は実施の側も示しています。正社員に対して計画的なOJT(現場での計画的な職業訓練)を実施した事業所の割合は60.6%で、前回の61.1%から0.5ポイント下がりました。正社員を雇用する事業所のうち、正社員に対してキャリアコンサルティングを行うしくみがある事業所は48.4%、正社員以外を雇用する事業所のうち正社員以外に対して同じしくみがあるのは30.1%です。職場を離れて行う教育訓練(OFF-JT)または自己啓発支援に費用を支出した企業の割合は54.4%で、OFF-JTに支出した費用の労働者一人当たり平均額は2.0万円と、前回の1.5万円から0.5万円上がりました。
支出額は上向いた一方で、正社員への計画的なOJTの実施率は前年を割り込みました。人材版伊藤レポート2.0が挙げる共通要素の「リスキル・学び直し」を人事戦略に掲げる前に、誰がいつ教えるのかという担い手と時間の確保を項目として書き込んでおく。この一行があるかどうかで、翌年の進捗報告の中身が変わります。
離職の側も同じ構図です。厚生労働省の令和7年度能力開発基本調査で「人材を育成しても辞めてしまう」が51.6%という水準にある以上、育成投資の議論と定着の議論は切り離せません。手順3でリスクを整理するとき、育成と定着を1つの機会とリスクの組として束ねておくと、投資の順序を決めやすくなるでしょう。
開示義務のない企業でも枠組みはそのまま使える
有価証券報告書を提出しない会社にとっても、ここまでの枠組みは流用できます。人的資本可視化指針の改訂版(2026年3月23日公表)は対象を企業規模に関わらず様々な企業と明記し、同日公表の別紙も第1部について、人材戦略を経営方針・経営戦略等に関連付けて具体的に記載することを検討する全ての企業に役立つよう記載していると述べました。
移植するときの要点は媒体の順序です。可視化指針の改訂版は、まず有価証券報告書の記載を充実させ、任意の開示媒体はそれと整合的かつ補完的に使うという考え方を示しています。開示義務のない会社は、この「正本を1本だけ作る」という部分を借りればよい。人事戦略の正本を1つ決め、採用サイトも社内説明も統合報告書もそこから派生させる形にすると、記述の食い違いが起きません。
労働市場へ向けて出すときは範囲の設計も要ります。同指針は、開示と対話の対象と目的を明確に定義したうえで情報を取捨選択するとしています。投資家に向けた説明と候補者に向けた説明では、同じ人材戦略でも読みたい粒度が違う。全部を同じ文面で出すと、どちらにも届かない文書になってしまいます。
制度を経営戦略に接続した実例をあたりたい場合は、内閣官房・経済産業省・厚生労働省が2024年8月28日に公表したジョブ型人事指針が参考になります。導入企業20社の事例を、制度の導入目的と経営戦略上の位置付け、等級・報酬・評価などの制度の骨格、人事異動やキャリア自律支援を含む雇用管理制度、人事部と各部署の権限分掌、労使コミュニケーションを含む導入プロセスという5つの観点で整理したものです。自社の人事戦略を書き起こすときの目次としても転用できます。
人事戦略の見直しは現状の把握から始まる
人事戦略に求められる水準は、2026年2月の開示府令改正で一段上がりました。企業戦略と関連付けて説明することが有価証券報告書の記載事項になった以上、人事部門の中で閉じた中期計画のままでは、社外に対する説明が成り立ちません。
着手の順番に迷うときは、開示の書式からではなく、事業戦略の達成に必要な人材の質と量を書き出すところから始めるのが近道です。そこが埋まれば、置くべき指標も投資すべき領域も決まってくる。逆にそこを飛ばして指標から集めると、既に集計できる数値が並ぶだけで、戦略との接続は後付けの理屈になってしまう。
現在地の共有材料が手元にない場合は、エンジニア採用力チェックのような外形診断から入る手もあります。あるべき姿と現状のギャップを、まず採用の側から測っておくと、次の議論を数字の上で進められます。