人的資本という言葉は、有価証券報告書での開示が求められるようになった2023年から、人事や経営企画の会議に頻繁に登場するようになりました。ところが、そのときに整理した理解のままでは、いまの実務に追いつきません。2026年の春、国が企業に求める説明の型が組み替えられ、対象となる企業の範囲も広がったからです。
変わったのは言葉づかいではなく、何をどう書けば説明したことになるのかという枠組みそのものでした。この記事では、人的資本の意味をあらためて押さえたうえで、いま自社に何が求められているのかを、官公庁の一次資料に沿ってたどります。
人的資本とは何を指すのか
人的資本とは、人が持つ知識・技能・経験・意欲を、設備や資金と同じ「資本」として捉える考え方です。会計上、人件費は費用として処理されます。しかし経営の見方としては、人への支出は将来の価値を生むための投資であり、資本として蓄積され、使い方によって増えも減りもする対象になる。この見方の切り替えが、人的資本という言葉の中身のほぼすべてだと言ってよいでしょう。
似た言葉に人的資源があります。資源は「使えば減るもの」で、限られた量をいかに配分し、管理するかという発想につながりました。資本は「投じれば増えるもの」なので、どこに投じれば価値が伸びるかという問いが前に出ます。同じ人を見ていても、前者からは人件費の抑制が導かれ、後者からは育成や配置への投資が導かれる。言葉の選び方が、そのまま意思決定の向きを変えるわけです。
日本語では「人的資本」と「人的資本経営」がしばしば混ざって使われますが、前者は考え方、後者はその考え方に立った経営のやり方を意味します。制度の議論で登場するのはさらにもう一段先の「人的資本開示」で、これは自社の人的資本の状態と方針を外部に説明する行為にあたります。3つは対象が違うので、社内で議論するときは、いまどれを話しているのかを最初にそろえておくと混乱が少ない。
人的資本経営は従来と何が違うのか
人的資本経営とは、人材を資本と捉え、その価値を引き出すことで中長期の企業価値を高める経営のやり方です。従来の人材管理との違いは、出発点がどこにあるかにあります。従来は人事の側に制度・採用・評価という持ち場があり、その中で最適化を図っていました。人的資本経営では、経営戦略の実現に何人のどんな人材が要るのかという問いが先に立ち、そこから人材戦略が逆算されます。
この「経営戦略と人材戦略の連動」という考え方は、2022年に経済産業省がまとめた人材版伊藤レポート2.0が広め、多くの企業がここから議論を始めました。源流をたどりたい場合は伊藤レポートの解説が入口になります。
もっとも2026年の時点では、連動という言葉を掲げるだけでは足りなくなりました。後述する人的資本可視化指針の改訂版は、従来の指針が連動の重要性を指摘するにとどまり、具体的な考え方やステップに関する記述は限定的だったと自ら振り返り、そこへ踏み込む形で書き換えられています。何と何を、どういう順で結ぶのか。そこまで示せて初めて連動を説明したことになる、という水準に上がったのだと読めます。
なぜ人的資本が注目されているのか
企業の価値を生む源泉が、工場や店舗といった有形の資産から、人や知識といった無形の資産へ移ったことが最大の理由です。人的資本可視化指針の改訂版は、2020年にS&P500構成銘柄の時価総額のうち90%を無形資産が占めるに至ったと記しています。財務諸表に載る資産だけを見ても企業の実力が分からなくなり、投資家は財務の外側にある人の情報を求めるようになりました。
同じ指針は、日本の無形資産投資が米国・ドイツ・フランス・英国と比べて低水準にあり、これらの国が右肩上がりに投資を伸ばす一方、日本ではこの10年間ほとんど増えていないとも指摘します。人的資本への投資が諸外国に見劣りするという事実認識が、国が制度を動かす動機になっている。ここを押さえておくと、一連の改正の狙いが、開示それ自体よりも投資の拡大にある点が見えてきます。
労働供給の制約も後押ししました。経済産業省の2040年の就業構造推計を引きながら、指針は、十分な国内投資と産業構造転換が実現すれば就業者数の減少下でも全体として大きな不足は生じないが、現在の人材供給のトレンドが続けば職種間・学歴間で需給のミスマッチが生じうると整理しています。課題は人手の総量ではなく質と配置にある、という診断です。だからこそ投資量の拡大だけでなく、投資の質が問われることになりました。
人的資本の開示ルールは何が変わったか
2026年の春、人的資本に関わる制度が3か月のあいだに3つ動きました。それぞれ所管も対象も違うため、個別のニュースとしては流れていきやすいのですが、実務の側から見ると3つで1つの変化になっています。
時期 | 何が変わったか | 対象 |
|---|
2026年2月20日 公布・施行 | 開示府令の改正。有価証券報告書に企業戦略と関連付けた人材戦略などの記載を追加 | 有価証券報告書の提出会社 |
2026年3月23日 公表 | 人的資本可視化指針の改訂。開示の考え方を国際基準に沿って組み替え | 企業規模を問わない |
2026年4月1日 施行 | 女性活躍推進法の改正。男女間賃金差異と女性管理職比率の公表義務を拡大 | 常時雇用101人以上の事業主 |
まず有価証券報告書です。金融庁は令和8年2月20日に開示府令等の改正を公布・施行し、開示府令第二号様式に「連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略」「従業員給与等の決定方針」「提出会社の従業員の平均給与の対前年比増減率」の記載を求めることにしました。使用人向けストックオプション制度や、役員および従業員株式所有制度の概要の記載も加わります。適用は令和8年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書等からで、2026年3月期の有報が最初の対象になりました。
なかでも重いのは給与に関する2項目でしょう。従業員給与の決定方針と平均給与の前年比増減率が並ぶと、賃上げの方針と実績が同じ書面の上で突き合わされます。人材戦略を語りながら賃金の水準や配分が動いていない企業は、その不一致が読み手の目に見えてしまう。数値そのものよりも、方針と実績のずれが露出する点に注意が要ります。
次に人的資本可視化指針です。内閣官房・金融庁・経済産業省は令和8年3月23日に改訂版を公表しました。詳しくは後述しますが、開示事項を並べる指針から、経営戦略と人材戦略の関係をどう説明するかの指針へ、重心が移りました。
3つ目が女性活躍推進法の改正で、これがもっとも対象範囲の広い変化になります。
同じ時期に、より先の日程も決まっています。金融庁は同じ改正でサステナビリティ開示基準の適用時期も定め、平均時価総額3兆円以上の会社は令和9年3月期から、3兆円未満1兆円以上の会社は令和10年3月期から適用するとしました。大企業ほど準備期間が短く、段階的に対象が広がる設計です。
「7分野19項目」は今も基準なのか
人的資本開示の解説で広く引かれてきた「7分野19項目」は、2022年の人的資本可視化指針が示した開示事項の例であって、法令で義務づけられた項目の一覧ではありません。ここは誤解が定着している部分です。2023年1月31日公布の開示府令改正で有価証券報告書に加わったのは、人材育成方針・社内環境整備方針といった戦略側の記載と、女性管理職比率・男性の育児休業取得率・男女間賃金格差の3指標でした。しかも金融庁の公表資料は、3指標について「女性活躍推進法等に基づき公表する場合には」という条件を明示しています。19項目が一律に義務化された事実はありません。
そして2026年の改訂版では、19項目という枠組み自体が本体の記述から外れました。改訂版の本体は「経営戦略と人材戦略の連動の考え方」「人材戦略を踏まえた指標及び目標の開示」「4つの要素を踏まえて考えられる人的資本開示の全体像」という構成で、2022年版の柱だった「4つの視点」「7分野」という語は本文に一度も現れません。開示事項の一覧は付録②「人的資本に関する開示基準・開示事項例の整理」へ移り、代表的な開示基準ごとの整理という位置づけになりました。
この移動は、単なる編集上の入れ替えとは違います。改訂版は、各社の開示が進んだ一方で、投資家からは企業価値向上に向けた経営戦略の実現と、それに紐付く財務指標の改善に必要な人的資本投資が行われているかという観点での開示が不十分だという指摘があった、と背景を説明しました。項目を埋める作業に力を注いだ結果、読み手が知りたい筋道が見えないままだった。だから枠組みを、項目の並びから戦略の説明へ組み替えたわけです。
したがって、いま社内に「19項目を埋める」という前提で作られた開示の設計図がある場合は、それを見直す時期にあたります。並べた項目が自社の戦略のどこにつながるのかを語れるかどうかが、問われる水準になりました。
上場していない企業にも関係があるのか
関係します。2026年4月1日に施行された改正女性活躍推進法により、男女間賃金差異の公表義務が常時雇用101人以上の事業主へ拡大され、女性管理職比率が新たに同じ規模の事業主の義務に加わりました。上場・非上場を問わず、従業員が101人を超える企業は自社の人的資本に関する数値を外部に出す立場になります。
厚生労働省のリーフレットは、企業規模ごとの必須項目を次のように整理しました。
企業等規模 | 改正前 | 改正後 |
|---|
301人以上 | 男女間賃金差異に加えて2項目以上 | 男女間賃金差異および女性管理職比率に加えて2項目以上 |
101〜300人 | 1項目以上 | 男女間賃金差異および女性管理職比率に加えて1項目以上 |
100人以下 | 努力義務 | 努力義務 |
改正法は令和7年6月11日に公布され、これに基づく省令・指針は同年12月23日に公布・告示されています。あわせて、女性の職業生活における活躍の推進にあたっては女性の健康上の特性に配慮して行われるべき旨が、基本原則で明確化されました。
この拡大は有価証券報告書の側にも波及します。2023年の改正で有報に記載が求められる3指標には「女性活躍推進法等に基づき公表する場合」という条件が付いていました。女活法の側で公表義務の対象が広がれば、その条件に当てはまる企業も自動的に広がる構造です。制度が別々に動いているように見えて、実務では連動しています。
なお可視化指針の改訂版は、企業規模に関わらず様々な企業を対象にガイダンスを提供すると明記しました。開示の義務が及ばない企業にとっても、人材の獲得と定着という点で人的資本の説明には実利がある。情報公表の範囲そのものが女性活躍に対する姿勢を表すものとして求職者の企業選択の要素になる、と厚生労働省も注意を促しています。
人的資本の国際規格は使えるのか
人的資本の解説では、国際標準化機構(ISO)が2018年に公表した ISO 30414 が国際基準として紹介されることがよくあります。人的資本の報告に関するガイドラインで、コンプライアンス、コスト、多様性、リーダーシップ、組織文化といった領域ごとに指標を体系化したものです。社内で指標の候補を洗い出す段階では、抜けを見つける道具として役立ちます。
ただし、日本の制度開示との関係では位置づけを見誤らないほうがよいでしょう。2026年5月に公表された可視化指針の付録②は、我が国および他の主要国の制度開示で用いられる代表的な開示基準等として、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)、サステナビリティ会計基準審議会、金融庁、米国証券取引委員会(SEC)、欧州委員会と欧州財務報告諮問グループを挙げています。ここに ISO 30414 の名前はありません。付録②自身が網羅を目的としないと断ってはいるものの、制度開示の軸として国が示したのは別の系統だという事実は残ります。
実務への含意は単純です。ISO 30414 は指標の引き出しとして使い、有価証券報告書や情報公表の設計は国内制度と国際サステナビリティ基準の側から組み立てる。この使い分けをしておけば、規格の指標をそろえたのに開示要件を満たしていない、という食い違いを避けられます。
海外の企業には何が求められているのか
米国と欧州でも、人的資本の開示は制度として義務づけられています。付録②によれば、米国証券取引委員会は財務諸表以外の情報に関する規制であるRegulation S-Kに、人的資本の開示を義務化する規定を2020年に追加しました。欧州委員会は2021年4月に企業サステナビリティ報告指令を公表し、2023年1月に発効、2024年度からEU域内の一定規模以上の上場企業等へ適用が始まっています。
欧州の動きには揺り戻しもありました。適用時期を2年延期する法案が2025年4月に採択され、適用対象企業の閾値変更など負担軽減策に関する法案が2026年2月に採択されています。開示制度は一方向に厳しくなり続けるとは限らず、実務負担との調整のなかで振れる。海外子会社を持つ企業は、この振れ幅も含めて情報を追う必要があります。
日本の位置づけも整理しておきます。国内の基準設定主体であるサステナビリティ基準委員会は、国際サステナビリティ基準審議会の基準との機能的な整合性を確保した日本で最初のサステナビリティ開示基準を2025年3月に設定しました。国内制度と国際基準は、同じ方向へ接続されつつあります。
人的資本開示は何を書けばよいのか
改訂版が示す答えは、国際基準の4つの要素に沿って組み立てる、というものです。国際サステナビリティ基準審議会の基準はガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標の4要素での開示を求めており、改訂版はこれを人的資本に引き付けて次のように整理しました。
要素 | 人的資本に引き付けた内容 |
|---|
ガバナンス | 人的資本関連のリスクおよび機会をモニタリングし、管理し、監督するために用いるガバナンスのプロセス、統制、手続 |
戦略 | 人的資本関連のリスクおよび機会を管理する企業の戦略、すなわち人材戦略 |
リスク管理 | 人的資本関連のリスクおよび機会を識別し、評価し、優先順位付けし、モニタリングするために用いるプロセス |
指標および目標 | 人材戦略に関して企業が用いている指標および目標 |
このうち投資家が経営戦略と関連付けた開示を期待しているのは戦略と指標および目標の2つで、残る2つはそれらと関連付ける形で書くことで全体がそろう、という順序が示されています。
もう少し細かく見ると、改訂版は経営戦略と人材戦略の関係を2つのステップで説明できるとしました。ひとつは「依存と影響」で、企業は経営戦略の達成に必要な労働力に依存し、その人的資本を確保するために投資を行って影響を与える、という相互関係です。もうひとつは、その相互関係から生じる「人的資本関連のリスクと機会」を明らかにし、どの人材戦略でそれに対応しようとしているかを示すことになります。
この2段を通すと、抽象的になりがちな連動という言葉が具体的な文章に落ちます。自社の事業は誰のどんな能力に依存しているのか。その依存からどんなリスクと機会が生まれるのか。それに対して人材戦略で何をするのか。指標と目標で進捗をどう見るのか。この4つの問いに順に答えた文章が、いま求められている開示の姿だと言えるでしょう。
人的資本の指標はどう選べばよいのか
指標は、他社が使っているものを並べるのではなく、自社の人材戦略から逆算して選びます。改訂版が指標および目標を「人材戦略に関して企業が用いている指標及び目標」と定義しているとおり、先にあるのは戦略のほうです。順序を逆にすると、測りやすい数値だけが集まり、戦略と無関係な一覧ができあがります。
実務上は、法令で公表が必要な指標と、自社の戦略を説明するための指標を分けて考えると整理しやすくなるでしょう。前者は女性管理職比率や男女間賃金差異のように、比較可能性が求められる領域です。後者は自社固有の事情を映すもので、特定領域の人材の充足率、育成投資の額と対象者数、内部登用の比率、従業員エンゲージメントのスコアなどが候補になります。
比較可能な指標を使う場合の書き方についても、付録②が踏み込んだ整理をしています。指標が他社と共通であっても、その指標を開示した理由に自社固有の経営戦略やビジネスモデルが強く影響するなら、なぜその開示を重要と捉えているのか、それを統合的なストーリーのどこに位置づけているのかを説明する。そうすれば、自社固有の開示でありながら比較可能性にも応えられる、という考え方です。共通指標か独自指標かという二者択一で悩む必要はありません。
指標を決めたあとに残る作業が、目標値の設定と定点観測の仕組みづくりになります。ここは人的資本に固有の難所というより、人事KPIの設計と運用の問題に重なる領域です。算出式を固定し、誰がいつ集計するかを決めておかないと、開示のたびに数値の作り直しが発生します。
特定領域の人材の充足率を指標に選ぶなら、まず自社が今どの水準にあるかという起点が要るはずです。エンジニア領域であれば、エンジニア採用力チェックで外形的な現在地を確認できます。目標値を置く前の基準線として使える材料でしょう。
人的資本経営はどの順で進めるのか
可視化指針の改訂版は、経営戦略と連動した人材戦略の策定にあたって、経営戦略における重要な項目、あるべき組織・人材の姿、求められる人材戦略・人的資本投資を体系的に整理する必要があると述べています。そのうえで、事業セグメントや地域ごとの事業戦略を踏まえ、それぞれで人材の質と量の充足や活性化に向けた目標を定め、具体的な人材戦略と投資を検討する進め方が有益だとしました。ガバナンス体制を含む組織的な基盤づくりも同時に挙げられています。
これを社内の作業手順に置き換えると、次の並びになります。
- 事業戦略のうち、今期から中期にかけて達成すべき重要項目を絞り込む
- その達成に必要な組織と人材の状態を、セグメントごとに書き出す
- 現状との差を人材の質と量の両面で把握する
- 差を埋める人材戦略と投資を決め、経営として資源を配分する
- 進捗を測る指標と目標を置き、モニタリングの担当と頻度を決める
- 開示と対話を通じて外部の見方を取り込み、次の周期に反映する
この順番を守ることには意味がある。多くの企業でつまずくのは最初の2段で、事業戦略が人材の言葉に翻訳されないまま、3段目以降の指標づくりから着手してしまうためです。指標から入ると、既に集計できる数値が並び、戦略との接続はあとから理屈をつける形になってしまう。
なお、この作業は人事部門だけで完結しません。改訂版が、経営層のコミットメントのもとで経営戦略と連動した人材戦略が策定され、人的資本投資が進められていることを必要不可欠だと書いているのは、事業戦略の重要項目を絞り込む判断が経営の仕事だからです。
人的資本経営で何が得られるのか
得られるものは大きく3つあります。ひとつは資本市場での評価で、投資家が人的資本の情報を求めている以上、戦略と結びついた説明ができる企業は資金調達の場面で有利に立てます。改訂版が繰り返し「投資家の期待に応える」という言い方をしているのは、開示の受け手が誰かをはっきりさせるためでしょう。
ふたつめは人材の獲得と定着です。改訂版は、企業の人的資本投資に関心を持つのは投資家だけでなく、転職希望者や自社の従業員も同じだと明記しました。育成にどれだけ投じ、どんなキャリアを描けるのかという情報は、候補者が企業を選ぶ材料そのものになります。開示の副産物として採用広報の材料が整う、という見方もできます。
3つめが社内の意思決定の質です。事業戦略から必要な人材の質と量を逆算する作業を通すと、これまで前例で決めていた採用計画や配置が、根拠を持った判断に変わります。人的資本開示のためだけに走らせると負荷の高い作業に見えますが、経営会議で人の議論を数字と戦略の言葉で扱えるようになる効果のほうが、日々の実務では大きいかもしれません。
人的資本の取り組みでつまずく点は
もっとも多いのが、開示の体裁を整えること自体が目的になってしまう状態です。項目は埋まっているのに、読んだ人が自社の戦略を理解できない。改訂版が背景として挙げた投資家からの指摘は、まさにこの状態を指しています。依存と影響からリスクと機会、人材戦略、指標と目標へと一本の筋が通っているかで自己点検すると、抜けている箇所が浮かび上がるはずです。
次に多いのが、他社の開示を参照しすぎることでしょう。比較可能性が求められる指標については横並びに意味がありますが、自社固有の戦略を説明する部分まで他社に合わせると、どの企業の報告書とも似た文章になり、独自性が消えます。改訂版が求めているのは、自社の事業がどの人材に依存しているのかという企業固有の説明のほうです。
3つ目は、数値を出したあとの運用が続かないことです。初年度は工数をかけて集計できても、算出の定義が文書化されていなければ、翌年に別の担当者が別の方法で集計し、時系列の比較が成り立たなくなります。開示は一度きりの作業ではなく、毎年更新される定点観測だと捉えておきたいところです。
4つ目として、規模の小さい企業ほど「うちにはまだ関係がない」と判断しがちな点も挙げておきます。101人という基準は、成長中の企業なら数年で越える水準でしょう。義務が生じてから体制をつくるより、必要になる指標を先に決めて集計を回しておくほうが、結果として負担は小さくなります。
人的資本への投資をどこから始めるか
人的資本という言葉の中身は、人への支出を費用ではなく投資として扱うという一点に集約されます。2026年の3つの制度改正は、その扱いを社内の理解にとどめず、外部に説明できる形にすることを企業に求めました。求められているのは、事業がどの人材に依存し、そこにどんなリスクと機会があり、それにどう手を打っているのかという筋道の説明です。
着手の順番に迷う場合は、開示の書式から入らず、自社の事業戦略の達成に必要な人材の質と量を書き出すところから始めるとよいでしょう。そこが埋まれば、書くべき指標も、投資すべき領域も自然に決まってきます。逆にそこが埋まらないまま指標を集めても、翌年また同じ議論をやり直すことになるはずです。
自社の採用と人材確保の現状がどの水準にあるかを外形的に把握したい場合は、エンジニア採用力チェックで診断できます。人的資本の議論を社内で始めるとき、現在地の共有材料として使えるはずです。