人事戦略の事例を集めても、自社で動く形になりません。仕上がりを決めているのは、どんな会社の事例を読んでいるかです。
国は、人事戦略の実践例を社名つきでまとめた資料を1つだけ公表しています。そこに並ぶのは、歴史の長い大企業に強く寄った顔ぶれです。この偏りを先に把握すると、真似られる部分と真似られない部分が分かれます。
この記事では、その事例集の中身を数え直しました。どの論点に事例が集まり、どの論点が空いているのか。そして規模を問わず移せる型は何かを整理します。
人事戦略の事例で参照できる一次資料は1つ
人事戦略の事例について、国が社名つきで公表している資料は『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』です。経済産業省が令和4年5月に公表した全82ページの資料で、19社の取組を掲載しました。同資料は冒頭で「この事例集は、人的資本経営を実践している事例を挙げ、その概要と取組のポイントを紹介したもの」と位置づけを述べています。出所:経済産業省『人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~ 実践事例集』(2022年5月公表・掲載19社)。
この事例集は、同時に公表された報告書本体と対になっています。本体が枠組みを示し、事例集がその枠組みに沿った実例を並べる構成です。
人事戦略そのものの定義、戦略の立て方の手順、2026年に変わった開示制度は人事戦略とは?経営と連動させる立て方と開示制度で扱いました。本記事はそこから事例だけを切り出し、事例の読み方に絞ります。
枠組みは3つの視点と5つの共通要素
報告書本体は、人材戦略に求められるものを3つの視点と5つの共通要素に整理しています。事例集を読むときの座標軸は、この8つです。
3つの視点は次の3点になります。経営戦略と連動しているか。目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか。人材戦略が実行されるプロセスの中で組織や個人の行動変容を促し企業文化として定着しているか。
5つの共通要素は、動的な人材ポートフォリオ、知・経験のダイバーシティ&インクルージョン、リスキル・学び直し、社員エンゲージメント、時間や場所にとらわれない働き方です。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0』(2022年5月13日公表)。
座標軸が要るのは、事例集の各ページに印字があるからです。その取組がどの視点・どの要素に当たるかのタグが、冒頭に付いています。
1社あたりの分量は本文4ページで固定
事例集の構成は全社で揃っています。1社の紹介は本文4ページです。先頭ページに会社概要と「同社における人的資本経営実現のポイント」を3点置き、続く3ページに取組を1つずつ並べました。
つまり1社について読めるのは、代表的な取組3つだけになります。19社すべてが例外なく3つなので、総数は57です。
ここが最初の注意点になります。事例集に載っているのは、公表時点で代表として選ばれた3つの断面にとどまります。各社の人事戦略の全体像とは別物です。
掲載19社の顔ぶれは大企業と老舗に寄る
事例集の会社概要欄には、本社所在地と創業年が載っています。ここを19社ぶん並べると、母集団の性質が見えました。
本社所在地は東京都が17社です。残る2社は京都府と大阪府になります。創業年(一部は設立年)は1858年から2003年に分布し、中央値は1923年でした。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』(2022年5月公表・n=19)。
項目 | 19社の実測 |
|---|
本社所在地 | 東京都17社/京都府1社/大阪府1社 |
創業・設立年の範囲 | 1858年〜2003年 |
創業・設立年の中央値 | 1923年 |
公表時点で創業100年以上 | 9社 |
1社あたりの掲載ページ | 本文4ページ(取組3つ) |
双日は2003年設立の値で数えた(会社概要欄には前身企業の1862年創業も併記されている)。
出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』(2022年5月公表・n=19)。
事例の材料は各社の統合報告書
事例集の本文に置かれた図版には、出所が明記されています。「〇〇レポート2021」の形で示された抜粋元です。
「〜より抜粋」の形で出所が付いた図版は35点ありました。そのうち23点が2021年の統合報告書またはサステナビリティレポートからの抜粋です。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』(2022年5月公表・出所つき抜粋35点を集計)。
統合報告書を毎年発行しているのは、基本的に上場企業になります。事例の材料そのものが、投資家向けの開示物に依存していました。
偏りは前提として差し引く
この顔ぶれ自体は、事例集の価値を下げません。人的資本経営を早く始めた企業を集めた資料なので、先行例が大企業に寄るのは自然な結果です。
問題になるのは、読み手が偏りを知らずに施策だけを持ち帰るときになります。数千人規模の人材データベースを前提にした仕組みは、数十人の組織にそのまま置けません。
事例集自体も「今後、事例は追加や更新を行う可能性があります」と注記しました。現在の19社は、公表時点の集まりにすぎません。
57ブロックのタグを数えると空いている論点が出る
事例集の取組ブロックには、3つの視点・5つの共通要素のタグが付いています。57ブロックぶんを集計すると、事例がどこに集まっているかが数字で出ました。
視点・要素 | 57ブロック中 | 19社中 |
|---|
視点1 経営戦略と人材戦略の連動 | 35 | 19 |
視点2 As Is-To beギャップの定量把握 | 26 | 17 |
視点3 企業文化への定着 | 28 | 19 |
要素1 動的な人材ポートフォリオ | 32 | 19 |
要素2 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン | 29 | 19 |
要素3 リスキル・学び直し | 17 | 13 |
要素4 社員エンゲージメント | 26 | 18 |
要素5 時間や場所にとらわれない働き方 | 4 | 3 |
出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』(2022年5月公表・全57ブロックのタグを集計)。
要素5の事例はほぼ無い
最も差が大きいのは要素5です。時間や場所にとらわれない働き方は5つの共通要素の1つですが、紐づく取組は57ブロック中4つにとどまりました。社数では19社中3社です。
つまりこの要素について事例集を読んでも、実践像はほとんど得られません。枠組みには含まれているのに、事例の側が追いついていない論点になります。
要素3のリスキル・学び直しも13社で、要素1・要素2の19社と差がありました。事例が厚いのは人材ポートフォリオとダイバーシティの側です。
薄い論点は、事例集の外で埋めることになります。制度や統計の側を当たるか、自社で先に運用して記録を残すかの2つです。事例が無いことは、その論点が重要でないことを意味しません。
視点1が最多になるのは設計どおり
視点1の経営戦略と人材戦略の連動は35ブロックで最多でした。理由は枠組みの側にあります。
報告書本体の冒頭で、伊藤邦雄氏は「なかでも『経営戦略と人材戦略が同期しているか』という視点を強調した」と述べています。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0』(2022年5月13日公表)。枠組みの重心がそこに置かれており、事例の分布もそれを反映しました。
事例集を読むときは、この重心を意識すると迷いません。見るべきは、施策が経営計画のどの部分に紐づいているかです。
19社に共通して現れる型は3つ
社名と施策名を覚えても再現にはつながりません。移せるのは、施策の背後にある進め方です。エグゼクティブサマリーと各社の取組を通読すると、繰り返し現れる型が3つありました。
必要な人材の質と量を定期的に洗い出す
1つ目は、必要な人材を毎年棚卸しする運用です。旭化成の事例は「経営戦略の実現に必要な人財ポートフォリオの構築のために、採用すべき人財の質と量を、事業軸と機能軸の両面から、毎年全社的に洗い出している」と記述されました。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』(2022年5月公表)。
要点は、洗い出しが単発の計画ではない点です。年次の作業として組み込まれています。事業軸と機能軸の2方向で見るという切り方も、規模を問わず持ち帰れます。
同社の事例は、採用と育成で確保できない人材を別の手段で補う設計も併記しました。必要量が足りないと分かった後の打ち手まで含めて1つの型です。
経営戦略から降ろすだけでなく逆向きも成立する
2つ目は方向の話になります。人事戦略は経営戦略から降ろすものと説明されがちですが、事例集には逆向きの記述がありました。
キリンホールディングスの事例は「経営戦略に基づいて人材戦略を発想するのではなく、人材の持つ強みを生かしてヘルスサイエンス領域へ参入したように、人材戦略から経営戦略を生み出す発想を持っている」と書かれています。出所:同事例集(2022年5月公表)。
自社に何ができる人材がいるかから、事業の選択肢を考える順序です。事業計画が固まっていない段階でも人事側から動けるので、実務上は扱いやすい型になります。
期間の単位は年ではなく10年
3つ目は時間軸です。事例集には、10年以上かけたと明記された取組が2社ありました。
日立製作所の事例は、グループ・グローバル共通の人材データベースと共通の人材マネジメント基盤・制度を「10年以上かけて段階的に拡充してきた」と記述しています。丸井グループの事例も、社員一人ひとりの自主性を促す文化の醸成に「10年以上の期間をかけ」取り組んできたと書かれました。出所:同事例集。
事例として紹介されている完成形は、着手から10年後の姿です。1年で同じ状態を目指す計画は、最初から前提が合っていません。
3つの型の使い方
型を3つに絞ると、事例の読み方が変わります。自社が今どの型を実行できるかを基準に、事例を選べました。
- 棚卸し:必要な人材の質と量を、事業軸と機能軸で定期的に洗い出す
- 逆向き:手元の人材の強みから、取れる事業の選択肢を考える
- 10年:基盤の整備は年単位ではなく10年単位で区切る
人事部門の側を変えた取組が起点に置かれる
型の3つに加えて、事例集にはもう1つの共通点がありました。施策の前に、人事部門そのものの立ち位置を動かした記述が多く現れる点です。
報告書本体もそこを起点として指定しています。CHRO(最高人事責任者)の設置と全社的経営課題の抽出が、「経営戦略と人材戦略を連動させるための取組」の中でも最も重要なステップになると明記されました。出所:経済産業省『人材版伊藤レポート2.0』(2022年5月13日公表)。
順序としては、制度の設計より先の段階があります。誰が経営と人材の接続を担うかを決める部分です。
人事の役割を経営と事業の側へ寄せる
アステラス製薬の事例は、人事が「経営層や事業部門と共に戦略を実現する」体制へ移行していると記述されています。手段として挙がるのは3つです。経営陣と共に組織健全性に関する目標を設定すること。HRデータを分析して経営へ提示すること。事業リーダーの開発を支援すること。同社は社外からGlobal head of HRを招聘して取組を加速したとも書かれました。出所:同事例集(掲載19社)。
注目したいのは、3つの手段がいずれも人事の外側との接点である点です。並んでいるのは、経営と事業に情報を渡す仕事です。
目標管理と配置の前提を置き換える
既存の運用の前提そのものを変えた事例もありました。
花王の事例は、KPIに基づいた目標管理・評価制度を改め、「ありたい姿や理想に近づくための高く挑戦的な目標」としてOKR(Objectives & Key Results)を導入したと記述しています。SOMPOホールディングス(SOMPOは損害保険を中核とする企業グループの呼称)の事例は、社員を自律的なプロと捉え、会社主導の人事異動を実施しない運営へ移行したと書かれました。出所:同事例集。
どちらも施策の追加ではなく、既にある仕組みの置き換えです。予算を増やさずに動かせる範囲が残っているかを、自社でも先に確認できます。
対話の場を制度として置く
企業文化への定着(視点3)に紐づく取組は、対話の設計に寄りました。
東京海上ホールディングスの事例は、あらゆる階層・社員間のコミュニケーションのために、まじめな話を気楽にする対話の場を設置したと記述しています。オムロンの事例は、社員が企業理念を体現した実例をグローバル全社で共有し合う運用を持ちました。出所:同事例集(掲載19社)。
いずれも、使われている場面を流通させる形を取ります。理念や方針の掲示で止めていません。規模に依存しない部分が多く、数十人の組織でも置けます。
事例を自社へ移す前に自社側の現在地を測る
3つの型のうち、最初につまずくのは棚卸しです。必要な人材の質と量を出すには、今いる人材の状態が分かっている必要があります。
事例集のタグも同じことを示しました。視点2のAs Is-To beギャップの定量把握は19社中17社に紐づいており、ほぼ全社が現状把握の取組を持っています。
現状把握が抜けたまま施策だけを導入すると、効果を判定できません。ギャップが測れていなければ、施策が埋めるべき差そのものが定義されていないためです。
測る前に詰まっている企業が多い
現状把握以前の段階で止まっている企業は少なくありません。厚生労働省の令和7年度「能力開発基本調査」では、能力開発や人材育成に関して何らかの問題があるとする事業所の割合が80.1%でした。
問題点の内訳(複数回答)は、指導する人材が不足している59.5%が最も高く、人材を育成しても辞めてしまう51.6%、人材育成を行う時間がない45.5%が続きます。出所:厚生労働省『令和7年度「能力開発基本調査」の結果』(2026年7月31日公表)。
挙がっているのはいずれも、戦略の巧拙より前の資源の問題です。事例集の施策を検討する前に、この層が自社に当てはまるかを確認する順序になります。
採用側の現在地は指標で分解できる
人材の確保が詰まっている場合、原因は採用の工程のどこかにあるはずです。求人の出し方、候補者への接触、選考の通過、内定後の意思決定のどこで落ちているかを分けて見る必要があります。
エンジニア採用力チェックは、採用の状態を5指標24項目で採点し、結果を1枚の報告書として返す診断です。自社の弱い工程がどこかを先に切り分けてから、事例の施策を当てる順序にできます。
評価制度の側の事例は人事評価制度の事例、公表20社の規模と再現条件、人事領域のデジタル化の事例は人事DX事例の読み方|普及水準と再現の条件で扱いました。
2026年からは他社の事例より自社の記述が問われる
事例を探す動機は、自社の人事戦略を書くためであることが多いはずです。その書く側の要件が、2026年に変わりました。
金融庁は令和8年2月20日に開示府令の改正を公布・施行しています。有価証券報告書の記載上の注意に、人材戦略に関する基本方針等の項目が加わりました。求められるのは、連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略、それを踏まえた従業員給与等の決定方針、提出会社の従業員の平均給与の対前年比増減率の3点です。適用は令和8年3月31日以後に終了する事業年度からになります。出所:金融庁『企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令等の公布及びパブリックコメントの結果について』(2026年2月20日公布)。
連動の説明が具体性を問われる段階に入った
制度側も、これまでの整理が足りていなかったと認めました。内閣官房・金融庁・経済産業省が令和8年3月23日に公表した『人的資本可視化指針(改訂版)』は、2022年8月の旧指針が可視化の重要性や方法については有用な情報を多く載せていたとしたうえで、改訂の理由を述べています。「経営戦略と人材戦略の連動については、その重要性の指摘にとどまり、具体的な考え方やステップに関する記述は限定的であった」。出所:内閣官房・金融庁・経済産業省『人的資本可視化指針(改訂版)』(2026年3月23日公表)。
改訂版は、適用対象を企業規模に関わらず様々な企業と明記しています。上場企業だけの話として置いておけません。
制度改正の全体像は人的資本とは?2026年の制度改正で何が変わったかで扱いました。
事例集は書き方の参考にもなる
開示の観点で見ると、事例集の使い道がもう1つ出てきます。19社の記述は、経営計画と人材施策の紐づけを外部向けに説明した文章の実例です。
三井化学の事例は、ビジネスモデル転換を伴う経営計画と連動させた点が特徴として記述されました。人材戦略を体系的に明確化し、具体的な方策までを社外に開示しています。出所:同事例集。
見るのは施策の中身より、施策と計画の接続をどう文章にしているかです。事例集の元資料が統合報告書である以上、開示文の見本としての性格を持ちました。
事例の読み方を4段で整理する
ここまでを、着手の順序に並べ替えます。事例を集める作業は最後に置きました。
- 現在地を測る:人材の状態と採用工程のどこで詰まっているかを数字にする
- 型を選ぶ:棚卸し・逆向き・10年の3つから、今の自社で実行できるものを1つ決める
- 事例を当てる:選んだ型に対応する事例だけを読み、規模の違いを差し引く
- 書いて残す:経営計画と人材施策の接続を文章にし、指標と期間を添える
この順序にすると、事例の偏りが問題になりません。型を先に決めてから読むので、自社と規模が違う会社の施策をそのまま持ち帰る手順が発生しないためです。
事例集を読むときの3つの確認
最後に、事例集の各社ページを開くときの確認事項を3つ挙げます。
- その取組に付いているタグ(視点・要素)が、自社の課題と一致しているか
- 記述の中に、着手から現在までの期間が書かれているか
- 図版の出所が何年の資料か(事例集の図版は2021年のものが大半)
3つ目は特に見落としやすい部分です。事例集の公表は2022年5月で、その材料は前年の開示物でした。現在の各社の姿とは差があることを前提に読む必要があります。
事例集との付き合い方
人事戦略の事例で参照できる一次資料は、経済産業省の『人材版伊藤レポート2.0 実践事例集』です。19社・57ブロックという構成は固定されており、タグを数えると事例が集まる論点と空いている論点が分かりました。
母集団は東京都に本社を置く老舗の大企業に寄っています。この偏りを差し引いたうえで、棚卸し・逆向き・10年という3つの型に還元すると、規模が違う組織でも持ち帰れます。
そして2026年からは、他社の事例を読むことより自社の人材戦略を記述することが求められる段階に入りました。事例集は、その記述の見本としても使える資料です。