人事DXの事例をいくつ読んでも、自社の次の一手が決まらないことがあります。勤怠をクラウドに移した、評価をシステム化した、面談の記録を一元化した。どれも正しい取り組みに見えるのに、自社に置き換えると優先順位が付きません。
足りないのは事例の数ではなく、その取り組みが世の中でどこまで当たり前になっているかという基準線です。同じ規模の企業の多くが済ませたことなら、それは先進事例ではなく追いつくべき遅れになります。この記事では公的な調査から人事領域のデジタル化の普及水準を示し、事例が自社で再現しない理由まで順に追う構成です。
人事DXが指す範囲は、記録と手続きと学習の3層
人事DXという言葉は広く使われますが、実務で動く対象は3層に分かれます。
第1層が記録と手続きです。給与計算、人事情報の管理、勤怠の記録といった基幹的な事務が入ります。紙と個別のファイルからクラウドの仕組みへ移す層で、事例で最も多く語られるのがここです。
第2層が働き方の設計です。テレワークやフレックスのように、制度と運用をデジタル前提で組み替える層を指します。
第3層が学習と評価です。研修の提供、スキルの可視化、評価と処遇への反映がここに入ります。3層のうち最も進んでいないのがこの層でした。事例が自社で再現しない理由も、多くはここにあります。
言葉としてのDXの定義とIT化との違いはDXとは?定義とIT化との違い、取組率75.7%の実態で整理しました。以降はこの3層を軸に、各層がどこまで普及したかを数字で押さえました。
人事DXの事例を読むときに確かめる3点
事例を判断材料として使うには、本文に入る前に3つを確かめます。
ひとつめは出所です。企業自身が公表したものか、システムを提供した側が自社サイトに載せたものかで、書かれていない部分の量が変わります。前者は統合報告書やプレスリリースで裏が取れますが、後者は確かめる先がありません。
ふたつめは時点です。人事領域のシステムは数年で入れ替わるため、5年前の事例と昨年の事例では前提が違います。とくに生成AIが実務に入ったのはこの2〜3年で、それ以前の事例は選べる手段の幅が今と異なります。
みっつめが普及水準です。ここが最も見落とされます。その取り組みは、まだ少数の企業しかやっていないことなのか、それとも多数派が済ませたことなのか。ここが分かると、同じ事例が「真似すべき先進例」から「埋めるべき遅れ」へと意味を変えます。
ここから先は、3層それぞれの普及水準です。
第1層はクラウドを使う企業の56.3%が実装済み
事例でよく取り上げられる「給与や人事の管理をクラウドへ移す」取り組みは、クラウドを使う企業の中では過半が済ませています。
クラウドサービスを使っている企業のうち、その用途に「給与、財務会計、人事」を挙げた企業は56.3%でした。前年の52.1%から4.2ポイント増えています。用途の中では、ファイル保管・データ共有、社内情報共有・ポータル、電子メールに次ぐ4番目の位置です。
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・クラウド利用企業 n=2,133)。
クラウドで使っている用途 | 令和7年 | 令和6年 |
|---|
ファイル保管・データ共有 | 73.3% | 71.0% |
社内情報共有・ポータル | 61.4% | 57.6% |
電子メール | 57.4% | 56.8% |
給与、財務会計、人事 | 56.3% | 52.1% |
スケジュール共有 | 53.6% | 51.1% |
データバックアップ | 46.4% | 43.7% |
取引先との情報共有 | 26.8% | 24.5% |
eラーニング | 25.3% | 22.7% |
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・クラウド利用企業 令和7年 n=2,133 / 令和6年 n=1,937)。
この並びからは、3層の進み方に段差があると読み取れます。第1層にあたる「給与、財務会計、人事」は56.3%に達した一方、第3層のeラーニングは25.3%で4社に1社にとどまります。学習の領域は、まだ差が付く余地が残っている側でした。
したがって「勤怠と給与をクラウドに移した」という事例は、いま読む価値としては先進性ではありません。クラウドを使う企業の過半が済ませた工程を、自社がまだ終えていないかどうかを測る物差しとして使うのが正しい読み方です。ここが終わっていないなら、事例を探すより先に着手する対象がはっきりします。
なお56.3%は、原典では「給与、財務会計、人事」を束ねた1つの選択肢です。財務会計だけに使っている企業も含みます。分母もクラウドを使う企業に限られるので、全企業に直すと過半には届きません。
効果の面も確かめておきます。クラウドサービスを利用した企業のうち、89.4%が効果があったと回答しました(同調査・n=2,123)。導入して後悔したという回答はほとんど出ていません。
クラウド全体の利用は83.5%だが、資本金規模で差が残る
人事の用途を見る前に、その母数となるクラウド利用そのものの水準を押さえます。
クラウドサービスを一部でも利用している企業の割合は83.5%でした。全社的に利用している企業も60.0%あり、前年から6.9ポイント増えています。一部利用にとどまらず全社へ広げる段階に入った企業が、この1年で目立って増えました。
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・n=2,486)。
規模による差は残っています。資本金1億円以上の層はいずれも9割を超える一方、5,000万円未満の層は7割台から8割台にとどまりました。
資本金規模 | 令和7年の利用率 |
|---|
1,000万円未満 | 75.4% |
1,000万〜3,000万円未満 | 74.8% |
3,000万〜5,000万円未満 | 84.1% |
5,000万〜1億円未満 | 83.1% |
1億〜5億円未満 | 92.3% |
5億〜10億円未満 | 92.5% |
10億〜50億円未満 | 97.5% |
50億円以上 | 99.8% |
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表)。
ここで読み違えやすいのが調査の範囲です。この調査の企業調査は、公務を除く産業に属する常用雇用者規模100人以上の企業を対象にしています。100人未満の企業はそもそも数えられていません。
つまり上の数字が示すのは、100人以上の企業に限った姿です。日本企業全体の平均とは母集団が違います。従業員数が数十人の組織がこの水準と自社を比べると、実際より遅れて見えてしまうでしょう。事例集に並ぶ企業と自社を比べるときも、同じ注意が要ります。
第2層のテレワークは50.1%が導入済み
第2層で最も広く実装された取り組みが、働く場所の設計です。
テレワークを導入している企業の割合は50.1%で、前年から2.8ポイント増えました。
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・n=2,488)。
導入した企業のうち83.4%が、導入目的に対して効果があったと回答しています。
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・テレワーク導入企業 n=1,358)。
注目したいのは導入率よりも目的の変化です。目的の内訳を見ると、感染症への対応が最も高いままである一方、前年からの増加が大きかったのは人材に関わる3つでした。
テレワークの導入目的 | 令和7年 |
|---|
新型コロナウイルス感染症への対応(感染防止や事業継続)のため | 61.6% |
勤務者のワークライフバランスの向上 | 53.8% |
障害者、高齢者、介護・育児中の社員などへの対応 | 33.4% |
人材の雇用確保・流出の防止 | 23.9% |
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・テレワーク導入企業 n=1,371)。
同調査は、この3つで前年からの増加が大きいと述べました。危機対応として始まった制度が、人材の定着と確保の手段へ位置づけ直された経過が読み取れます。
導入しない理由も参考になります。テレワークを導入しておらず導入予定も無い企業では、「テレワークに適した仕事がないから」が80.4%で最も多く、「情報漏えいが心配だから」が17.1%で前年から3.9ポイント増えました。
出所:総務省「令和7年通信利用動向調査の結果」(2026年5月29日公表・テレワーク未導入で導入予定も無い企業 n=1,012)。
前者は業務の性質の問題なので、ツールを入れても解けません。後者は運用ルールと権限設計で扱う問題です。導入が進まない理由を一括りにせず、この2つを分けて扱うところから始めます。
第3層の手前で止まる理由1|成果指標の設定は23.9%
ここからは、事例が自社で再現しない理由に入ります。最初の壁は測り方です。
DXに取組んでいる企業のうち、成果指標を「設定している」と答えたのは23.9%でした。前年度と大きな変化はなく、4社に1社に届かない水準が続いています。
出所:情報処理推進機構(IPA)「DX動向2026」(2026年7月30日発行・DXに取組んでいる企業からの回答)。
設定していない企業の理由も同調査にあります。「評価指標の設定方法がわからない」が36.0%で最も多く、前年度の28.7%から上がりました。「評価指標はこれから定める」も33.4%あり、必要性は感じながら着手できていない状態がうかがえます。
さらに、指標を設定している企業でも対象は内側に寄っていました。
成果指標の対象 | 設定している企業に占める割合 |
|---|
内向きの業務改革(社内の効率化) | 80.0% |
システム改革(AI・データ利活用の度合い等) | 55.4% |
外向きの業務改革(新たなビジネスや顧客価値の創出) | 33.5% |
経営改革(デジタル事業売上高、市場シェア等) | 16.3% |
出所:情報処理推進機構(IPA)「DX動向2026」(2026年7月30日発行・成果指標を設定している企業からの回答)。
内向きの指標が外向きの2倍以上の水準で並びます。
人事DXの事例が業務効率化の話に寄りがちなのは、書き手の趣味ではありません。成果の測り方そのものが内向きに設計されているため、外向きの成果が語れる材料が組織の中に残らないからです。
自社で事例を再現するなら、着手の前に指標を決めます。工数の削減時間なのか、離職率なのか、募集から入社までの日数なのか。ここを空欄にしたまま導入すると、1年後に「入れたけれど効果は分からない」という結論だけが残ります。
採用の側で指標を置くなら、先に確かめるのは募集条件と選考の設計がどこまで言語化できているかです。エンジニア採用力チェックを使うと、5つの指標で現在地を採点し、どこが埋まっていないかを外から確認できます。
第3層の手前で止まる理由2|報酬への反映は32.3%
ふたつめの壁は制度です。事例で語られる仕組みは、それを動かす人の評価と処遇が伴って初めて回ります。
同じ情報処理推進機構の調査は、企業文化・風土を「ガバナンス」「事業への取組み方」「労働環境・人材育成」に分けて尋ねています。「労働環境・人材育成」の回答には、はっきりした段差がありました。
労働環境・人材育成の状況 | 「できている」の回答率 |
|---|
新しいスキル等を習得することが奨励される | 54.0% |
学習を支援する制度やプログラムが充実している | 35.1% |
高いスキルを持っていることが報酬に反映される | 32.3% |
出所:IPA「DX動向2026」(2026年7月30日発行・n=1,799)。
学ぶことは奨励されるが、支援する制度は整っておらず、身につけても報酬には反映されない。同調査はこの落差を、スキルに対する要求と育成・評価とのギャップと表現しています。
この構図は人事部門にとって他人事ではありません。スキルを処遇へつなぐ設計は、システムの導入ではなく人事制度の改定で扱う領域だからです。ツールを入れても、等級や評価の定義が旧いままなら、事例と同じ結果にはなりません。
順序としては、制度側を先に動かします。何ができる人を高く処遇するのかを言語化し、そのうえで学習の支援と可視化の仕組みを載せる。逆にすると、記録だけが増えて処遇が変わらない状態が固定されます。
人材そのものの類型と必要スキルはDX人材とは?6類型の職種・必要スキルと採用・育成の進め方にまとめました。
事例を自社に持ち帰る4つの手順
ここまでの数字を踏まえると、事例の使い方は次の順番になります。
第1に、自社の位置を普及水準と照らします。 第1層の給与・財務会計・人事の管理がまだクラウドに乗っていないなら、そこは多くの企業に追いつく作業です。事例を探す前に着手します。
第2に、事例の出所と時点を確認します。システムを提供した側が書いた導入事例は、導入後の運用や中止の判断までは書かれません。企業自身が公表した資料まで辿れるものを優先します。全社DXの事例がどこから選ばれているかはDX事例30社の母集団は?選定の仕組みと再現条件で扱いました。
第3に、着手の前に指標を1つ決めます。DXに取組む企業でも成果指標を設定しているのは23.9%なので、決めている側が少数にとどまります。工数、離職率、採用のリードタイムのいずれかで構いません。
第4に、制度側の改定と同時に進めます。スキルを処遇へつなぐ定義が旧いままでは、仕組みだけが増えて終わりです。評価と等級の見直しを、システムの導入と同じ計画表に載せます。
人事業務のどこにAIを入れるかはAI人事とは?5つの活用領域と導入企業の成果で扱いました。
事例より先に、自社の現在地を数字で置く
人事DXの事例は、真似する対象としてより、自社の位置を測る物差しとして使うほうが実務に届きます。
第1層はクラウドを使う企業の56.3%が、第2層のテレワークは調査対象の企業全体の50.1%が実装しました。ここが終わっていないなら、先進事例の検討ではなく遅れの解消として扱います。
一方で、成果指標を設定しているのはDXに取組む企業の23.9%、スキルが報酬に反映されている企業は32.3%です。事例が自社で再現しない理由の多くは、システムではなくこの2つの側にあります。
導入の検討に入る前に、測る指標を1つ決め、処遇の定義を見直す。この2つを先に置いた組織だけが、事例と同じ結果に近づきます。