人的資本の事例を探すと、出てくるのは各社の統合報告書や企業サイトの取り組みを集めた紹介記事が中心です。ところが2026年の6月、3月決算の上場企業が出した有価証券報告書には、それまで無かった欄が加わりました。人材戦略、給与の決め方、そして平均給与が前の年からどれだけ動いたかです。
同じ欄に、会社ごとにまったく違う書き方が並びました。数字だけを置いた会社もあれば、数字が下がった理由を自分から書いた会社もあります。数字だけの報告書では、動いた理由を読み手が自分で推し量るしかありません。
金融庁が前年の開示を好事例に選んだ上場10社の、改正初年度の有価証券報告書を実物で読み比べました。持ち帰る判断基準は1つ、増減率の数字の横に、動いた理由を自社の言葉で書けるかです。制度の全体像は人的資本の解説記事にまとめています。
人的資本の事例を読む材料は2026年3月期の有価証券報告書
人的資本の開示事例を改正後の様式でまとまって読める最初の材料は、2026年3月期の有価証券報告書です。金融庁が2026年2月20日に公布した改正開示府令により、2026年3月31日以後に終わる事業年度の報告書から、人材戦略・給与等の決定方針・平均給与の対前年比増減率の3つの記載が義務になりました。
具体的な適用時期は改正府令の附則で定められ、人的資本開示と同じ時期から適用される総会前開示の改正について、金融庁は施行日(2026年2月20日)以後に提出する有価証券報告書での早期適用が可能である旨を附則に規定していると回答しています(金融庁のパブリックコメント回答 p.59 No.199)。それより前の決算期の報告書でも、新しい様式は早く使えたことになります。ただし義務として全社がそろうのは2026年3月期からで、3月決算の企業は2026年6月にこの様式の報告書を出しました。2023年3月期から始まった人的資本の開示義務は、多くの解説記事で紹介されてきています。今回の改正はそこに人材戦略・給与等の決定方針・平均給与の増減率の3つを足し、従業員の状況の記載場所も移したもので、各社の書き方はまだ1年分しかありません。
改正で有価証券報告書に加わった3つの記載
改正で求められるようになった記載は次の3つで、いずれも「第4【提出会社の状況】」の「5【従業員の状況等】」に置かれます。従来の「従業員の状況」は、第1【企業の概況】からこの位置へ移りました。
記載 | 求められる内容 |
|---|---|
人材戦略 | 連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略 |
従業員給与等の決定方針 | 人材戦略を踏まえた給与等の決め方(提出会社の方針に限ってよい。持株会社は最大人員会社の方針も書く) |
平均給与の対前年比増減率 | 提出会社の従業員の平均給与が前年からどれだけ動いたか |
持株会社のように主に子会社の経営管理を行う会社は、提出会社に加えて最大人員会社についても、給与等の決定方針と、平均給与・増減率などの数字を書きます。最大人員会社は従業員数が最も多い国内の連結子会社で、その会社の人数が連結全体の過半数に届かなければ、次に多い会社も含めます。
本記事で読む10社
対象は、金融庁『記述情報の開示の好事例集2025』の「人的資本、従業員の状況」で好事例に選ばれた12社のうち、2026年3月期の有価証券報告書を金融庁の電子開示システム(EDINET)で確認できた10社です。好事例集は2025年3月期(イズミは2025年2月期)の開示を選んだもので、本記事はその翌年の報告書を読んでいます。
会社 | 好事例集での区分 | 2026年3月期の提出日 |
|---|---|---|
従業員の状況 | 2026年6月9日 | |
従業員の状況 | 2026年6月11日 | |
人的資本 | 2026年6月11日 | |
人的資本 | 2026年6月16日 | |
人的資本 | 2026年6月19日 | |
従業員の状況 | 2026年6月22日 | |
人的資本 | 2026年6月22日 | |
従業員の状況 | 2026年6月23日 | |
人的資本(中堅・中小) | 2026年6月24日 | |
従業員の状況 | 2026年6月25日 |
12社のうちイズミは2月決算で、2026年5月に出した2026年2月期の報告書は、新しい様式を早く使うことはせず改正前の様式でした。増減率の欄もありません。NTTデータグループは、株式併合により2025年9月26日に東京証券取引所プライム市場で上場廃止となっており、上場企業を読む本記事の対象から外しました。
平均年間給与の増減率は10社で△4.3%から8.1%に開いた
10社が書いた提出会社の平均年間給与の対前事業年度増減率は、最も高い熊谷組の8.1%から、最も低い日清食品ホールディングスの△4.3%まで開きました。10社のうち3社はマイナスで、数字は各社の2026年3月期の報告書の「従業員の状況」から転記しています。
会社 | 従業員数(提出会社) | 平均年間給与 | 対前事業年度増減率 |
|---|---|---|---|
熊谷組 | 2,740人 | 9,179,351円 | 8.1% |
カプコン | 3,593名 | 9,852千円 | 7.3% |
うるる | 255人 | 6,690,466円 | 7.1% |
デンソー | 43,889名 | 9,152,532円 | 6.1% |
日立製作所 | 25,934人 | 9,949,714円 | +3.5% |
ニッスイ | 1,489人 | 8,506,166円 | 1.8% |
丸井グループ | 275名 | 6,888,700円 | 1.0% |
横浜フィナンシャルグループ | 701人 | 9,952千円 | △1.0% |
双日 | 2,519名 | 12,571,801円 | △1.3% |
日清食品ホールディングス | 980名 | 8,425,365円 | △4.3% |
出所: 各社『有価証券報告書』2026年3月期(提出会社の状況・2026年3月31日現在)、単位と符号は各社の表記のまま転記。
表の数字は各社の賃上げの大きさを並べたものではありません。増減率は平均値の変化なので、誰が入り、誰が辞め、賞与がどう動いたかで上下します。マイナスの3社のうち2社は持株会社で、提出会社の人数は数百人規模です。
増減率は賃上げ率と同じ数字にならない
ニッスイの有価証券報告書は、賃上げの率と平均年間給与の増減率が一致しないことを、自分から数字で示しました。定期昇給とベースアップの平均改定率は約5.5%でしたが、平均年間給与の増減率は1.8%にとどまりました。数字はいずれも同社の2026年3月期の報告書の人材戦略の欄にあります。
差の理由として、同社は従業員構成の変動と業績連動賞与の支給水準の変化を挙げました。そのうえで、個人単位で見た年間給与の増減率の中央値は約6%だったと参考値を添えています。平均と中央値を並べたことで、多くの従業員の給与は上がっていると読めるようになりました。
デンソーも表の直後に注記を置きました。増減率は賃上げに加えて、年齢構成や採用・退職の動向、賞与水準、時間外労働の増減の影響を受け、賃上げ水準だけを示すものではないという内容です。2026年の賃上げでは、労働組合の要求「昇給額 23,500円/月・人、賞与6.4か月」に満額回答したことも、同じ注記の続きにあります。
横浜フィナンシャルグループの△1.0%は、採用ではなくグループ体制の見直しにともなう動きです。同社は当事業年度から、主に横浜銀行・東日本銀行の業務に従事する兼務出向者も提出会社の従業員に含めて記載し、比較のために前事業年度も同じ基準で数え直した数字(430人・10,059千円)を載せました。そのうえで、グループ体制の見直しにともない従業員数が前事業年度より271人増えたことに加え、人員構成の変化により平均年間給与が前年度比△1.0%になったと注記しています。
採用で人が増えると平均年間給与は下がることがある
日清食品ホールディングスは2026年3月期の報告書で、子会社の湖池屋の平均年間給与が前事業年度より0.7%減った理由を、採用の拡大による人員構成の若返りと注記しました。同じ注記によると、湖池屋の平均年齢は0.6歳、平均勤続年数は0.3年下がりました。
同じ注記には、新規採用者を除いた継続雇用者の実態ベースでは前事業年度比3.9%の上昇だったとも書かれています。採用を増やした年は、平均年間給与の増減率が低く出ることがあります。人を増やす計画を持つ会社なら、同じ形の注記を前もって用意しておくのも一案です。
採用で人を増やす計画があるなら、増減率への影響と並べて、採用がどこで詰まりやすいかも先に見ておきたいところです。Offersのエンジニア採用力チェックは、企業のURLから公開情報をもとに採用力を5指標24項目で採点し、レポートで返します。公開情報だけで採点するため、選考の通過率や辞退率など社内のデータは含みません。社内の採用データとは別に、外から見える姿を確かめる用途です。
持株会社は子会社の平均年間給与も並べた
持株会社の3社は、提出会社に加えて最大人員会社の平均年間給与と増減率を並べました。提出会社の数字が小さな本社部門のものでも、子会社の欄を見れば、グループの多くの従業員の給与がどう動いたかが分かります。
持株会社 | 提出会社 | 最大人員会社 | 次に従業員が多い会社 |
|---|---|---|---|
横浜フィナンシャルグループ | △1.0%(701人) | 横浜銀行 6.2%(4,053人) | なし |
丸井グループ | 1.0%(275名) | エポスカード 3.6%(1,437名) | 丸井 3.0%(940名) |
日清食品ホールディングス | △4.3%(980名) | 日清食品 2.3%(1,565名) | 湖池屋 △0.7%(784名) |
出所: 各社『有価証券報告書』2026年3月期、Offers 編集部が転記。
日清食品ホールディングスと丸井グループが2社目まで書いているのは、最大人員会社の人数が連結全体の過半数に届かない場合に、次に多い会社も含めるという決まりによるものと読めます。
当期の増減の理由を書いたのは10社中3社
10社のうち、当期の増減率がなぜその数字になったかを注記や本文で書いたのは、ニッスイ・横浜フィナンシャルグループ・日清食品ホールディングス(湖池屋の欄)の3社でした。デンソーは増減率が賃上げ以外の要因でも動くことを一般的に説明する注記を置きましたが、当期の6.1%の原因は書いていません。残る6社には、増減率の理由に触れた注記はありませんでした。
数字だけでも法令上の記載は満たします。ただ、△4.3%のように大きく動いた数字ほど、読み手は理由を探します。日清食品ホールディングスは湖池屋の欄には理由を書きましたが、提出会社の△4.3%には理由を書いていません。読み手が自分で推し量るしかない形です。









